Tuesday, March 31, 2009
Monday, March 30, 2009
非常時に取り込まれないためのtips
ニュースはNHKラジオの定時ニュースを聞く。
ネットで見る場合はBBCを見る。
非常時と言う人に近づかない
緊迫、緊急、危急、切迫のような言葉を使う人は避ける。
国家存亡の危機などと言う人を避ける。
聖書を手元に置いておく
聖書、仏典など読んで心を落ち着かせる。芸能人、学者、文化人の政治的発言に気をつける。
有名人やインテリが真っ先に非常時に取り込まれる。そして人々を非常時に誘導する。
軍事解説を疑う
それが軍事的観点からのものか非常時に取り込まれた故のものかを見極めるべき。ロボットアニメを見ない
ロボットアニメは非常時を浸透させる。
Wednesday, September 27, 2006
アベっちのサッチャー的教育政策
今日の東京新聞はいかにも反アベっち政権な記事が満載なので、提灯持ち記事を求めて(失礼)sankei.co.jpを訪問しました。東京新聞は反官僚な記事も載せすぎですね。アベっちの思う壷でしょう。
sankei.co.jpにはあんまり提灯持ち記事がなくて、残念です。本紙を読まないとダメですか。
こんなところで反アベっち表明というのもどうかと思いますが、まぁいいではないですかと開き直ります。アベっちの教育政策はイギリスのサッチャー政権を参考にしているそうなので、それについて自分の別のブログで書こうと思いましたが、意見ではなくて解説が多いエントリーになりそうなので止めました。それで、ここで書くことにしました。
アベっち政権(というか最近の自民党政権)は日教組(日本教職員組合)といわゆる官公労をつぶそうとしていますが、そういったことを指摘しても意味ないですね。国民世論は労働組合を支持しなくなっていますから。組合の組織率は低迷していますし、教師や官僚の影響力は低下していますというかもともとそれほどないので、組合つぶしはあまり意味がありません。しかし、労組が改革を邪魔しているとか既得権益を持っているとかで、国民世論は組合つぶしを支持しているようです。労働市場の流動化や柔軟化はグローバル時代には必要なのかもしれませんが、そこから利益を得るのはほんの一部の人です。専門知識(とその獲得過程)や専門職の軽視は国家社会の存立を危うくすると思います。
利害当事者なのに、政策決定からはずさていた大多数の国民は改革路線を支持しています。専門家支配も嫌っています。官邸と国民世論を直接つながる、(擬似)直接民主主義の実現を国民世論は求めています。自民党の政治家は住民投票には否定的ですが、アベっち政権はそれを(擬似的に)実現するでしょう。
こんな解説はまったく必要ありませんね。
教育政策でアベっちは、教育市場の自由化を行おうとしています。教育も市場に組み込まれるようです。アベっちは学校バウチャーと学区制自由化を導入するそうです。サッチャー政権は公立学校の入学定員自由化と生徒数に応じた予算配分方式を導入しました。似ていますね。これによって学力が向上するはずだ、というわけです。親なら誰でも自分の子どもを少しでも良い学校に行かせたいと思うでしょう。しかし、イギリスで実際に起こったことは学力格差でした。つまり学力底辺校問題が顕在化しただけでした。日本では高校あたりでこの問題が顕在化するわけですが、今後は義務教育段階で顕在化するでしょう。特に学校選択の幅の広い都市部では数年で表れると思います。全体的な学力向上は望めないと思います。イギリスでは学力が劣る生徒は切り捨てられました。学校の質を上げる=生徒が集まる=予算が増える、という政策の下では当然過ぎる結果でした。義務教育段階での、学校の序列化は避けられないでしょう。
学力が劣ると判定された生徒の学力の向上は見込めるでしょうか。それとも良き労働者でいてくれればよいということでしょうか。一斉授業は悪平等と批判され、学力別授業も行われているようですが、今後は学校レベルで行われることになります。果たして学力別授業は、学力を向上することができたのでしょうか。それとも固定化しただけでしょうか。サッチャー政権の超個人主義というか自己崇拝がいじめを増長させたように、日本では人間の序列化が生じて目に見えるいじめが増えると私は思います。自己への配慮だけでなく、他者への配慮も失われるでしょう。不公正で不平等な社会というものはそういうものです。
もちろんアベっちは家族政策にも力を入れるようですから、心配しすぎかもしれません。しかし、”あたたかい”家庭が国家や学校によって破壊されるようでは意味がありません。
また学校評議会も導入されるようです。これは、教育委員会や教師を飛び越して無用化することになります。日教組の教師に支配されている学校を地域や親の手に取り戻そうというスローガンになるでしょう。”左翼に支配されている”公教育を保守政権の側に取り戻すというわけです。しかし、教育は政権支持者のためにあるわけではありません。学校や教育は多くの人の利益のために存在するはずです。政権のための教育は教育と呼ぶことはできないと思います。サッチャー政権でも似たようなことが行われましたが、組合やコミュニティを破壊し、寛容さを失った社会を生み出すことになりました。
サッチャー政権は人頭税の導入の不評から退陣しました。アベっち政権でも消費税が正念場となります。この問題をどう処理するでしょうか。対応しだいでは、サッチャー政権や国民福祉税で退陣した細川護熙政権と同じ道を歩むことになるかもしれません。それとも、新たな敵を作り出したり、ナショナリズムを煽ることで乗り切ろうするでしょうか。アベっちは祖父の岸信介を範としているようですから、国民に情報は与えず、議会を無視し、政府を信じろと言うのでしょう。
『イギリス教育改革の変遷-ナショナルカリキュラムを中心に-』国立国会図書館 レファレンスNo.658 (2005年11月)(pdf)
『サッチャーの遺産-1990年代の英国になにが起こっていたのか-』岡山勇一、戸澤健次 晃洋書房(2001)
『アメリカ:連邦最高裁判所、スクール・バウチャーに合憲判決』国立国会図書館 外国の立法No.214 (2002年11月)(pdf)
Saturday, February 18, 2006
教育が悪いんだってばっ
妄言には妄言で対抗してみる。
教育が悪いんだってばっ。この世の中で悪いことが起こるのはみんな教育が悪いんだってばっ。
安倍官房長官:ライブドア事件は「教育が悪いからだ」安倍晋三官房長官は16日夜、東京都内のホテルで、小泉純一郎首相と自民党総務会メンバーらとの会食に同席した。安倍氏はこの中で「ライブドア事件(の原因)は規制緩和と言われるが、教育が悪いからだ。教育は大事で、教育基本法改正案も出したい」と述べ、同方改正案の今国会成立に意欲を示した。
毎日新聞 2006年2月16日 23時13分
で、50年後。
そんなわけで、名宰相と謳われた安倍晋三の黒歴史に新たな一ページが加わえられる。「まったくなんて世の中だ」
「教育が悪いんだってばっ」
「誰だよ、こんな教育にしてのは」
「・・・」
「・・・」
いつの時代でも若者=青少年は非難の対象になりうる。それは50年後も100年後も変わらないだろう。だから教育制度をいじるのは慎重になった方が良い。あとになって、あんな制度を作ったの誰だ、と追及されるだけである。制度を変えたらすべてが良くなると考えるのは幻想である。少し変われば良い方である。物事は少しずつ動かすのが良い。
悪いことはすべて○○のせいだとして、その○○を一切合財変えればよいと考えるのは少し浅はかである。それは歴史の忘却=黒歴史の創造の始まりである。
Friday, February 17, 2006
メダルゼロ不安と勝ち組幻想
2006年2月16日の東京新聞が特報面でトリノオリンピックでの日本選手の成績不振を取り上げていた。メダルゼロになれば1976年のインスブルック大会(オーストリア)以来、30年ぶりだそうである。テレビが盛んに取り上げて多くのメダルが取れるような幻想を振りまいたことを取り上げた記事である。勝利が期待されながら日本の選手が次々敗退していくさまは、まるでナチスのベルリンオリンピックみたいだ、といえるかもしれない。しかし、いかにもな反応をしてもあまり意味がない。
スポーツジャーナリストの谷口源一郎氏は語る。
負けたのは選手ではなく”メダル幻想”を振りまいたメディアだ。しかし、テレビは高額の放送権料を支払っているのだから、見てもらうために盛り上げようとすることを責めることはできない。何でも商業化の世の中なのだから、そうするのは当然のことである。そこはテレビとの付き合い方である。盛り上がりたいのは視聴者=国民も同じで、食い物にされたと文句を言うのはおかしなことである。自分語りが避けられない時代であるのだ。
日本を勝ち組にしたいメディアが特定選手を『メダル有望』と盛んに持ち上げた。海外にどんな選手がいるのか、実力がどのくらい違うのかといった比較・検証はほとんどなかった。メダルへの期待を盛り上げるだけ盛り上げてために、現実にぶつかって『何だ』という話になっている。
漫画家のやくみつる氏は「メダルゼロ不安」を斬る。
メダルを待望する話より、無名ながら五輪選手になったスピードスケートの及川佑選手や、腰の手術を乗り越えた岡崎朋美選手らの苦労話の方が面白い。単に敗者にしてしまうのに忍びないストーリーにこそ見応えがある。ここにあるのは美談を待ち望む心性である。こういった美談も悪くはないが、粉飾されがちである。集団陶酔のための物語消費という側面もある。ライブドアに関する言説にも似たようなところがある。日本人をひとつに纏め上げるための祭りになっている。祭りの後には何が残るだろうか。躁のあとの鬱。
年配の男性がトリノオリンピックを鳥のオリンピックだと思った、という冗談がある。そのくらいが丁度いい。
Tuesday, February 07, 2006
王朝交替の見方
終息しそうな雰囲気だけど、王朝交替についてのとりあえずのまとめ。
男系維持派は女系移行を皇統の断絶としている。父の系統を重視しているから、その系統の変更を「王朝の交替」と受け取っているようである。
女系移行派は現皇室の血筋の維持を重視している。たとえ皇統につながっているにしても、旧皇族の皇籍復帰を新皇室の創設と見ている。それを「王朝の交替」と受け取っているようである。
両派の溝は深くて広い。この溝は埋まりそうにない。どちらの方法でも「王朝の交替」と受け取られる可能性がある。お互いにそう見ているし、世論にもそう見られる可能性はある。そうならないように、両派は手を尽くすべきであるが、そうはしていない。両派ともに言説編成に失敗しているのである。
世論が「王朝の交替」をどう思っているか知りたいところである。しかし、秋篠宮文仁親王妃紀子殿下が懐妊したそうなので、男子誕生確定なら、いま書いたことが世論に問われることはない。残念な気もするが、妃殿下懐妊は喜ばしいことなので、仕方がない。
Wednesday, February 01, 2006
天皇の制度の終わりの始まり
男系維持派は皇統の女系移行を左翼の陰謀だとしている。天皇制廃止の陰謀であると。しかし左翼は、女系移行は天皇制を永続化するものだとして、強く反対している。左翼は皇男子が絶えた時点で、天皇制は終わりだと見ている。男系維持にこだわりすぎることは、左翼を助けることにつながるだろう。皇統が男子によってのみ受け継がれるものであるならば、その時点で男系維持派のいう天皇の制度は終わりにしなければならなくなる。
男系維持派は未来の保守派のことを考えていないようである。愚かしいことである。将来のために、今からリソースを用意しておくべきである。結論の先送りは、男子が絶えた後の女系移行をとても困難にしてしまうだけある。終わりにするのであるならばまったく構わないが。