Friday, February 17, 2006

メダルゼロ不安と勝ち組幻想

2006年2月16日の東京新聞が特報面でトリノオリンピックでの日本選手の成績不振を取り上げていた。メダルゼロになれば1976年のインスブルック大会(オーストリア)以来、30年ぶりだそうである。テレビが盛んに取り上げて多くのメダルが取れるような幻想を振りまいたことを取り上げた記事である。勝利が期待されながら日本の選手が次々敗退していくさまは、まるでナチスのベルリンオリンピックみたいだ、といえるかもしれない。しかし、いかにもな反応をしてもあまり意味がない。

スポーツジャーナリストの谷口源一郎氏は語る。

負けたのは選手ではなく”メダル幻想”を振りまいたメディアだ。
日本を勝ち組にしたいメディアが特定選手を『メダル有望』と盛んに持ち上げた。海外にどんな選手がいるのか、実力がどのくらい違うのかといった比較・検証はほとんどなかった。メダルへの期待を盛り上げるだけ盛り上げてために、現実にぶつかって『何だ』という話になっている。
しかし、テレビは高額の放送権料を支払っているのだから、見てもらうために盛り上げようとすることを責めることはできない。何でも商業化の世の中なのだから、そうするのは当然のことである。そこはテレビとの付き合い方である。盛り上がりたいのは視聴者=国民も同じで、食い物にされたと文句を言うのはおかしなことである。自分語りが避けられない時代であるのだ。

漫画家のやくみつる氏は「メダルゼロ不安」を斬る。

メダルを待望する話より、無名ながら五輪選手になったスピードスケートの及川佑選手や、腰の手術を乗り越えた岡崎朋美選手らの苦労話の方が面白い。単に敗者にしてしまうのに忍びないストーリーにこそ見応えがある。
ここにあるのは美談を待ち望む心性である。こういった美談も悪くはないが、粉飾されがちである。集団陶酔のための物語消費という側面もある。ライブドアに関する言説にも似たようなところがある。日本人をひとつに纏め上げるための祭りになっている。祭りの後には何が残るだろうか。躁のあとの鬱。

年配の男性がトリノオリンピックを鳥のオリンピックだと思った、という冗談がある。そのくらいが丁度いい。

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