京都と長崎と奈良の事件の類似性について
相手に自分の存在を拒否ないし否定された
相手の存在が自分が存在することに強く関わった
つまり、相手が存在することが、自分の存在を危うくした
否定の応酬として、相手の存在を拒否さらに消去した
その結果として、他人に拒否された自分の存在を回復しようとした
逃げたり、自殺しなかったことがそう感じたことを示している
(奈良の件では服役中に自殺。自己崩壊がありうるということか?)
大切なのは自分の存在である
自己愛でも、妄想でもなく、存在のあり方を大切にする考えである
もちろん結果から見れば、顛倒している
奈良の件から考えると、存在の回復はできないとも言える
これらは日常的には仮想的に行われることがあるが、彼らはそうしなかった
彼らが真に存在を回復できたかどうかは関係がない
彼らがそう考えたことが大事なのである
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