Saturday, December 31, 2005

続・生命倫理なんて飾りです

承前

12月31日付の東京新聞に興味深い記事が載っていた(中国で邦人108人臓器移植死刑囚から提供 、リンク先は同じグループの中日新聞)。中国のドナーに死刑囚が多いことは、少し前に共同通信が報じていた 。こういったことは前から噂されていたことではある。腎臓の需要は特に高い。他の国では臓器売買の噂もある。人体組織の取引には不透明なことが多い。実利に対する誘惑に誰もが勝てるわけではない。

韓国のES細胞騒動で、韓国人の生命倫理を問題にするようなことが少しあったが、日本人の生命倫理もそう単純にはいかない。中国で日本人の臓器移植手術を仲介する中国国際移植支援ネットワークセンター (遼寧省瀋陽市)の代表は話す。

死刑囚から臓器提供を受けていることは分かっている。だが、自分の身内や子どもが重症患者だったら、倫理問題を言ってはいられない。中国の医療技術は高く、今後も臓器移植をサポートしたい

別に非難したいわけではない。私もこの代表の発言に幾分か同意する。過去を見れば、実利が倫理をしのいできたのである。現実には、「奇跡のような無限の進歩への信仰宣言をうたい上げることで、功利主義的な倫理が必ず逡巡を打ち破るという展開になって」いるのである。日本における脳死臓器移植の議論はそういう展開をたどってきた。実利を担保するために倫理は存在してきたのである。

共同通信は中国衛星省の黄潔夫次官を伝える。

死刑囚本人と家族から同意を得ており、倫理的な問題はない
死刑囚からの臓器提供や管理整備のための「人体器官移植条例(臓器移植法)」の制定を進めている
国際社会が抱いていた中国の移植に関する『灰色地帯』を解消することが可能になる
もちろんこれで、問題解決とはいかないだろう。人権原則から見れば、同意能力が低い状況にある死刑囚からの臓器提供は好ましいとはいえない。しかし、現実には移植用臓器は不足している。そのためのES細胞研究であった。臓器不足を解消するという実利を取るか、原理原則を守るか、という岐路にある。

結局のところ、現状は「もし生命倫理のルールは技術力に応じて見直してよいというのなら、倫理はもはや人生訓にすぎない」 のである。どんなに偉そうなことを言って生命倫理を持ち出したところで、その原則がいつでも守られるわけではない。飾りに過ぎない生命倫理など打ち捨てられるべきである。

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