Wednesday, September 27, 2006

アベっちのサッチャー的教育政策

今日の東京新聞はいかにも反アベっち政権な記事が満載なので、提灯持ち記事を求めて(失礼)sankei.co.jpを訪問しました。東京新聞は反官僚な記事も載せすぎですね。アベっちの思う壷でしょう。

sankei.co.jpにはあんまり提灯持ち記事がなくて、残念です。本紙を読まないとダメですか。

こんなところで反アベっち表明というのもどうかと思いますが、まぁいいではないですかと開き直ります。アベっちの教育政策はイギリスのサッチャー政権を参考にしているそうなので、それについて自分の別のブログで書こうと思いましたが、意見ではなくて解説が多いエントリーになりそうなので止めました。それで、ここで書くことにしました。


アベっち政権(というか最近の自民党政権)は日教組(日本教職員組合)といわゆる官公労をつぶそうとしていますが、そういったことを指摘しても意味ないですね。国民世論は労働組合を支持しなくなっていますから。組合の組織率は低迷していますし、教師や官僚の影響力は低下していますというかもともとそれほどないので、組合つぶしはあまり意味がありません。しかし、労組が改革を邪魔しているとか既得権益を持っているとかで、国民世論は組合つぶしを支持しているようです。労働市場の流動化や柔軟化はグローバル時代には必要なのかもしれませんが、そこから利益を得るのはほんの一部の人です。専門知識(とその獲得過程)や専門職の軽視は国家社会の存立を危うくすると思います。

利害当事者なのに、政策決定からはずさていた大多数の国民は改革路線を支持しています。専門家支配も嫌っています。官邸と国民世論を直接つながる、(擬似)直接民主主義の実現を国民世論は求めています。自民党の政治家は住民投票には否定的ですが、アベっち政権はそれを(擬似的に)実現するでしょう。

こんな解説はまったく必要ありませんね。

教育政策でアベっちは、教育市場の自由化を行おうとしています。教育も市場に組み込まれるようです。アベっちは学校バウチャーと学区制自由化を導入するそうです。サッチャー政権は公立学校の入学定員自由化と生徒数に応じた予算配分方式を導入しました。似ていますね。これによって学力が向上するはずだ、というわけです。親なら誰でも自分の子どもを少しでも良い学校に行かせたいと思うでしょう。しかし、イギリスで実際に起こったことは学力格差でした。つまり学力底辺校問題が顕在化しただけでした。日本では高校あたりでこの問題が顕在化するわけですが、今後は義務教育段階で顕在化するでしょう。特に学校選択の幅の広い都市部では数年で表れると思います。全体的な学力向上は望めないと思います。イギリスでは学力が劣る生徒は切り捨てられました。学校の質を上げる=生徒が集まる=予算が増える、という政策の下では当然過ぎる結果でした。義務教育段階での、学校の序列化は避けられないでしょう。

学力が劣ると判定された生徒の学力の向上は見込めるでしょうか。それとも良き労働者でいてくれればよいということでしょうか。一斉授業は悪平等と批判され、学力別授業も行われているようですが、今後は学校レベルで行われることになります。果たして学力別授業は、学力を向上することができたのでしょうか。それとも固定化しただけでしょうか。サッチャー政権の超個人主義というか自己崇拝がいじめを増長させたように、日本では人間の序列化が生じて目に見えるいじめが増えると私は思います。自己への配慮だけでなく、他者への配慮も失われるでしょう。不公正で不平等な社会というものはそういうものです。

もちろんアベっちは家族政策にも力を入れるようですから、心配しすぎかもしれません。しかし、”あたたかい”家庭が国家や学校によって破壊されるようでは意味がありません。

また学校評議会も導入されるようです。これは、教育委員会や教師を飛び越して無用化することになります。日教組の教師に支配されている学校を地域や親の手に取り戻そうというスローガンになるでしょう。”左翼に支配されている”公教育を保守政権の側に取り戻すというわけです。しかし、教育は政権支持者のためにあるわけではありません。学校や教育は多くの人の利益のために存在するはずです。政権のための教育は教育と呼ぶことはできないと思います。サッチャー政権でも似たようなことが行われましたが、組合やコミュニティを破壊し、寛容さを失った社会を生み出すことになりました。

サッチャー政権は人頭税の導入の不評から退陣しました。アベっち政権でも消費税が正念場となります。この問題をどう処理するでしょうか。対応しだいでは、サッチャー政権や国民福祉税で退陣した細川護熙政権と同じ道を歩むことになるかもしれません。それとも、新たな敵を作り出したり、ナショナリズムを煽ることで乗り切ろうするでしょうか。アベっちは祖父の岸信介を範としているようですから、国民に情報は与えず、議会を無視し、政府を信じろと言うのでしょう。


参考にしたもの

イギリス教育改革の変遷-ナショナルカリキュラムを中心に-』国立国会図書館 レファレンスNo.658 (2005年11月)(pdf)

『サッチャーの遺産-1990年代の英国になにが起こっていたのか-』岡山勇一、戸澤健次 晃洋書房(2001)

アメリカ:連邦最高裁判所、スクール・バウチャーに合憲判決』国立国会図書館 外国の立法No.214 (2002年11月)(pdf)

Saturday, February 18, 2006

教育が悪いんだってばっ

妄言には妄言で対抗してみる。

教育が悪いんだってばっ。この世の中で悪いことが起こるのはみんな教育が悪いんだってばっ。

毎日新聞に載ってた記事

安倍官房長官:ライブドア事件は「教育が悪いからだ」

安倍晋三官房長官は16日夜、東京都内のホテルで、小泉純一郎首相と自民党総務会メンバーらとの会食に同席した。安倍氏はこの中で「ライブドア事件(の原因)は規制緩和と言われるが、教育が悪いからだ。教育は大事で、教育基本法改正案も出したい」と述べ、同方改正案の今国会成立に意欲を示した。

毎日新聞 2006年2月16日 23時13分

で、50年後。

「まったくなんて世の中だ」
「教育が悪いんだってばっ」
「誰だよ、こんな教育にしてのは」
「・・・」
「・・・」

そんなわけで、名宰相と謳われた安倍晋三の黒歴史に新たな一ページが加わえられる。

いつの時代でも若者=青少年は非難の対象になりうる。それは50年後も100年後も変わらないだろう。だから教育制度をいじるのは慎重になった方が良い。あとになって、あんな制度を作ったの誰だ、と追及されるだけである。制度を変えたらすべてが良くなると考えるのは幻想である。少し変われば良い方である。物事は少しずつ動かすのが良い。

悪いことはすべて○○のせいだとして、その○○を一切合財変えればよいと考えるのは少し浅はかである。それは歴史の忘却=黒歴史の創造の始まりである。

Friday, February 17, 2006

メダルゼロ不安と勝ち組幻想

2006年2月16日の東京新聞が特報面でトリノオリンピックでの日本選手の成績不振を取り上げていた。メダルゼロになれば1976年のインスブルック大会(オーストリア)以来、30年ぶりだそうである。テレビが盛んに取り上げて多くのメダルが取れるような幻想を振りまいたことを取り上げた記事である。勝利が期待されながら日本の選手が次々敗退していくさまは、まるでナチスのベルリンオリンピックみたいだ、といえるかもしれない。しかし、いかにもな反応をしてもあまり意味がない。

スポーツジャーナリストの谷口源一郎氏は語る。

負けたのは選手ではなく”メダル幻想”を振りまいたメディアだ。
日本を勝ち組にしたいメディアが特定選手を『メダル有望』と盛んに持ち上げた。海外にどんな選手がいるのか、実力がどのくらい違うのかといった比較・検証はほとんどなかった。メダルへの期待を盛り上げるだけ盛り上げてために、現実にぶつかって『何だ』という話になっている。
しかし、テレビは高額の放送権料を支払っているのだから、見てもらうために盛り上げようとすることを責めることはできない。何でも商業化の世の中なのだから、そうするのは当然のことである。そこはテレビとの付き合い方である。盛り上がりたいのは視聴者=国民も同じで、食い物にされたと文句を言うのはおかしなことである。自分語りが避けられない時代であるのだ。

漫画家のやくみつる氏は「メダルゼロ不安」を斬る。

メダルを待望する話より、無名ながら五輪選手になったスピードスケートの及川佑選手や、腰の手術を乗り越えた岡崎朋美選手らの苦労話の方が面白い。単に敗者にしてしまうのに忍びないストーリーにこそ見応えがある。
ここにあるのは美談を待ち望む心性である。こういった美談も悪くはないが、粉飾されがちである。集団陶酔のための物語消費という側面もある。ライブドアに関する言説にも似たようなところがある。日本人をひとつに纏め上げるための祭りになっている。祭りの後には何が残るだろうか。躁のあとの鬱。

年配の男性がトリノオリンピックを鳥のオリンピックだと思った、という冗談がある。そのくらいが丁度いい。

Tuesday, February 07, 2006

王朝交替の見方

終息しそうな雰囲気だけど、王朝交替についてのとりあえずのまとめ。

男系維持派は女系移行を皇統の断絶としている。父の系統を重視しているから、その系統の変更を「王朝の交替」と受け取っているようである。

女系移行派は現皇室の血筋の維持を重視している。たとえ皇統につながっているにしても、旧皇族の皇籍復帰を新皇室の創設と見ている。それを「王朝の交替」と受け取っているようである。

両派の溝は深くて広い。この溝は埋まりそうにない。どちらの方法でも「王朝の交替」と受け取られる可能性がある。お互いにそう見ているし、世論にもそう見られる可能性はある。そうならないように、両派は手を尽くすべきであるが、そうはしていない。両派ともに言説編成に失敗しているのである。

世論が「王朝の交替」をどう思っているか知りたいところである。しかし、秋篠宮文仁親王妃紀子殿下が懐妊したそうなので、男子誕生確定なら、いま書いたことが世論に問われることはない。残念な気もするが、妃殿下懐妊は喜ばしいことなので、仕方がない。

Wednesday, February 01, 2006

天皇の制度の終わりの始まり

男系維持派は皇統の女系移行を左翼の陰謀だとしている。天皇制廃止の陰謀であると。しかし左翼は、女系移行は天皇制を永続化するものだとして、強く反対している。左翼は皇男子が絶えた時点で、天皇制は終わりだと見ている。男系維持にこだわりすぎることは、左翼を助けることにつながるだろう。皇統が男子によってのみ受け継がれるものであるならば、その時点で男系維持派のいう天皇の制度は終わりにしなければならなくなる。

男系維持派は未来の保守派のことを考えていないようである。愚かしいことである。将来のために、今からリソースを用意しておくべきである。結論の先送りは、男子が絶えた後の女系移行をとても困難にしてしまうだけある。終わりにするのであるならばまったく構わないが。

Monday, January 30, 2006

Do not preach!

反ライブドア言説にとても感情的に反応してみる。

労働は汗水たらしてするものだ、というのがある。実際のところ、汗水たらす疲労度の高い職種=肉体労働の賃金は低い。いわゆる頭脳労働の方がはるかに賃金は高い。従業員の平均給料の何百倍もの報酬を役員は受け取っている。そういう社会状況の中で、 汗水たらす労働が大切であると唱えることは説得力がない。ただの偽善である。お説教はもうたくさんなのである。

そんなお説教は昔からあるのである。江戸時代の後期には、石門心学の人たちが全国各地を講演して回って、教えを広めた。商人の間だけでなく、農村でも上農に頼まれて下農に教えを説いていたのである。幕末には報徳運動が起こっている。不安の時代にはそういうお説教を求める現象が起こる。先行きが見えないからか、見たいからか知らないが、現在の社会は何度目かの占いブームで只中である。そこではお説教が氾濫している。ただ繰り返し同じことが起こっているだけである。

人生訓の垂れ流しはそろそろ止めた方が良い。そんなものは一時的な慰めに過ぎないのである。必要なのは実践的な智慧である(笑)。

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Sunday, January 29, 2006

権力の男性中心主義

皇室典範改正問題における男系維持派の主張は、権力の男性中心主義を如実に示している。と、自明なことを指摘するのはとても恥ずかしいことではあるが。

女性天皇の配偶者に関して、その男性を尊崇することに違和感を表明するが、実のところ女性天皇を尊崇することを拒絶しているように見える。女の上司に仕えたくないと言う男みたいである。民間から皇室に入った男を殿下と呼ぶことの違和を表明するが、民間から入った女を殿下と呼ぶことには何も感じていないようである。つまり女を格下と見ているのである。違和の表明はどこの馬の骨ともわからぬ男に仕えるのが嫌だからであろう。しかしその男に仕える必要はない。天皇に仕えればよいのである。ところがその天皇は女であることが、男性中心主義の彼らには許せないのである。

女性皇太子が即位するまでには時間が空くから、その間に配偶者は備えればよいし、国民も慣れれば良いだけである。旧皇族が皇籍復帰した後、時間をかけて慣れればよいのであるならば、同じように女系移行に慣れれば良いだけである。それを拒否するのが彼らである。

そもそもそのような男性中心主義の雰囲気が民間から皇室に入った女性にプレッシャーを与え、世継ぎ問題にも大きな影響を及ぼしたのである。男系を維持する限りそのプレッシャーから解放されることはない。この先、子供が生まれない事態も考えられる。

このままでは配偶者選択はとても困難であると予想できるし、本当の意味で皇統は断絶するだろう。

以上恥ずかしながら、如何にもなことを書いてみた。

カルトと反カルトの関係とらいぶどあ☆そうどう

ライブドアをオウムになぞらえる話がある。その伝で行くと、反ライブドアは反オウムということになる。つまり、カルトと反カルトの関係である。

反カルトはなぜかカルトに似てしまう。組織になってしまうとその傾向が強く出る。批判しているものに似てしまうのは悲劇か喜劇か知らないが、たぶんその構造を取り入れているせいだろう。

ライブドアがカルトっぽいのであれば、そこらじゅうの組織、企業がカルトといえる。ライブドアをオウムみたいだと言っている人たちだってプチカルトやミニカルトみたいなものに属しているかもしれないのだ。発言には気をつけたほうがよいと思う。知らずして権威主義と妄信を内蔵しているから。

反ライブドア言説はなぜかみんな似てしまう。まったく多様性というものがない。あまりにも典型的過ぎるのだ。まだライブドア内部の方が多様な意見があるかもしれないということに、彼らは気付きもしないだろう。

Friday, January 27, 2006

偽の世論って言うな!

ついに寛仁親王殿下が日本会議に登場した。新聞、雑誌と違って政治的にかなり明確な意思を持つ運動体の機関紙に殿下が登場することは、政治的な事柄になっていく。私はもう十分政治的な事柄になっていると思う。

殿下の発言からは、男系維持派の主張が本当の世論で、女系移行派の主張は偽の世論という感じが窺える。世間は女帝と女系の違いを理解していないと言うけれど、これは単なるアナウンス不足で今後しだいに理解されていくものだろう。もちろん男系維持派の主張もアナウンス次第で理解を得られると思う。皇族の晩婚が跡継ぎが絶えてる原因なのだから、悠長に議論している暇はない。急がなければ、女系に移行するにせよ、男系を維持するにせよ、跡継ぎ不在で本当に皇統が絶えてしまう事になる。皇族は20代前半までには婚姻すべきであり、そうなると残された時間はもうわずかなのである。

世論の大勢が女系移行に傾いたとしても、それを間違った世論だなどと決め付けることがないよう男系維持派に望む。もちろん殿下にも。ついでに産経にも、自分たちの意に沿わない世論を間違ったものとする社説を書かないように望む。

Saturday, January 21, 2006

天皇言説の再編成の失敗、あるいは僕たちの失敗

皇室の再編成、つまり旧皇族の皇籍復帰には天皇言説の再編成が必要かと思う。また、皇統が女系に移行した場合にも別の形の再編成が必要になるだろう。そういった意味でどちらにせよ、皇統は危機にある。言説の再編成に失敗すれば、皇統は実質上断絶することになる。しかし、男系維持派も女系移行派も言説の再編成にうまくいっていないように見える。

過去に明治時代の大日本帝国憲法や第二次大戦後の日本国憲法の下で言説の再編成は行われた。天皇の御真影の配布や全国の巡幸などが用いられた。そして、そのときの状況に合致した新しい天皇像、皇室像が形作られた。

現在の状況では相当強力な言説が必要になる。現在は冷笑圧力が強い時代である。しかしそれに対抗できるだけの言説が出ていない。男系維持派は神聖性や日本の滅びを言うばかりである。天皇の掩蔽や不安を煽る言説で大勢の支持を得ようとしている。女系移行派は現状追認で、現実に流されているだけである。そこには何の積極性も新しさもない。あるのは消極性と退廃だけである。もし本気で自らの支持を得たいのなら、もう少し戦略的に行動するべきだろう。結論の先延ばしは本当の意味で皇統の断絶を招くだろう。

そうは言っても、自分たちが死んだ後の話など、予言めいたことでしかないのである。ここら辺が議論が盛り上がらない原因だろう。そんな私も言説には関心があるが、皇統の行く末にはあまり関心がない。その瞬間を目撃することは難しいだろうから。

Friday, January 20, 2006

パターン化された言説

一部で話題の「伊勢崎のジャンヌダルク」のブログ を少し読んでみた。書いてあることが、「青少年に有害! 子どもの「性」に怯える社会」に出てくる”禁欲主義・純潔主義”派の主張にとても似ている。こういう言説はパターン化されているのだろう。

彼女の側にしてみれば、お前たちこそパターン化している、と言うだろうけれど。

こういう話題は妥協点がないから議論しても不毛なだけである。見解の相違だよ、見解の相違。

神道系の人がキリスト教系の主張と酷似してしまうというのもアレだな。

Thursday, January 19, 2006

なんか必死だな

最近の世の中の動きを見ているとこう感じる。

みんな必死だな、と。

自分が信じたくないものを否定するために、みんなものすごく必死になっているように感じるのである。

何もそこまで必死にならなくてもいいのに。

ほとんど自己の存在を賭けて、そうしている人が多いような気がする。

オレもだけど。

たとえ自分の信じたくないものが実在したとしても、自己が崩壊するわけでもないのに。

もう少し気を楽にしたものだ。

Tuesday, January 17, 2006

Monday, January 16, 2006

滅びの予感?

承前(『男子が絶える=天皇制の終わり?』、『超政治』)

皇室典範改正論議において、男系維持派の巻き返しの動きが活発になっている。皇太子夫妻の離婚の噂まである。それが陰謀かどうかは別として。

皇室内部からも、(三笠宮)寬仁親王殿下 が活発に発言している。皇族であるから当然のことなのだろうが、殿下の発言には男子が絶えることが日本が絶えるということとイコールで結ばれているという強烈な意識がある。

そのとき国民の多くが天皇というものを尊崇の念でみてくれるのでしょうか。日本の歴史に根ざしているこの天皇制度が崩れたら、日本は四分五裂してしまうかもしれない。この女系天皇容認という方向は、日本という国の終わりの始まりではないかと私は深く心配するのです。
この強烈な滅びの予感は危険なものではないか。滅びの予兆を信じすぎることは、本当の滅びを招かないか。危機感はわかる。しかし、それを日本の衰退と結び付けるのいかがなものか。もう少し国民を信頼して欲しいものである。

民主党の前原誠司代表がテレビ朝日の報道番組で

国民が天皇制に側室制度なんか駄目だということになれば女系天皇もやむなしだ
若干慎重な考えを持っていたが、側室制度がない中で男系が維持できるかは、大いに生物学的に疑問だ
と語った。現状では旧皇族が復帰したとしても、将来的に男子が絶える可能性は十分ある。皇太子夫妻の離婚や側室制度導入は”国民の模範”としての皇室像をあきらめる必要がある。そのときこそ国民の多くが天皇というものを尊崇の念でみてくれない可能性が高い。男系維持にこだわりすぎることが、国民の皇室離れを加速させる可能性もある。それでよいのだろうか。国民を臣民と見るのはいかがなことかと思う。

インドは社会主義国なんだけど・・・

中国を牽制するために、インドとの連携を強めようという動きがあるようだ。安倍官房長官はNHK番組で

日中関係だけではなくアジア全体を見る必要がある。インドやオーストラリアなどと自由、民主主義、基本的人権、法の支配というキーワードを軸にマルチ(多国間対話)の場をつくってもいい

と語った。自由、民主主義、基本的人権、法の支配を軸に連携を強めるのは好ましいことではある。しかし、インドは社会主義国である。マルクス主義的な意味ではない。インドは世界最大の民主主義国であると同時に、最も成功した社会主義国でもある。インドの国家理念の理想は非常に高いのである。もちろん、理想的目標はかかげていても、現実とはあまりに距離がある

インド憲法の前文には社会主義国であることが明記されている(Constitution of India - Wikipedia)。

WE, THE PEOPLE OF INDIA, having solemnly resolved to constitute India into a SOVEREIGN SOCIALIST SECULAR DEMOCRATIC REPUBLIC and to secure to all its citizens:
JUSTICE, social, economic and political;
LIBERTY of thought, expression, belief, faith and worship;
EQUALITY of status and of opportunity;
and to promote among them all
FRATERNITY assuring the dignity of the individual and the unity and integrity of the Nation;
IN OUR CONSTITUENT ASSEMBLY this twenty-sixth day of November, 1949, do HEREBY ADOPT, ENACT AND GIVE TO OURSELVES THIS CONSTITUTION
SOCIALISTという単語は1976年の補正で加えられた。インドの指導者たちは社会主義傾向が強かったから、それが反映されたのだろう。制憲の父アンベードガルもネルーもそうだ。そこには政治的民主主義だけでなく、社会的民主主義、経済的民主主義の実現の理念が込められている。志が高いのである。

経済において、中国リスクを回避するために投資先をインドに切り替えようとする動きもあるようである。しかし、インドは日本と違って労働者保護の政策が手厚い。とてもすばらしいことだ。しかし、この点がインドリスクとなる可能性もある。実際、それは顕在化し始めている。トヨタ自動車は、インド南部の都市バンガロール近くのキルロスカル工場でのストライキが3日目に突入したことを受け、同工場を無期限閉鎖すると発表した

インドと手を組むのもわるくない。しかし、日本の思惑だけで手と結ぼうとしてもうまくいくとは限らない。


Wednesday, January 11, 2006

続・スタンバイ国家

承前(「スタンバイ国家」)

朝鮮日報の1月6日付社説『「戦争は起こらない」と信じて服務している若き兵士たち』によると現役の兵士10人のうち6人が、これから韓半島(朝鮮半島)で戦争が勃発する可能性はないと信じているという調査結果が報道されたそうだ。北朝鮮の武力解放の可能性をかなり高いと見ている私の立場はまるでない。北朝鮮と対峙している最前線の韓国軍の現役兵士の63%は、北朝鮮を「敵ではなくパートナーの関係」と見るべきと答えたのは大変な驚きである。韓国の保守派が不安になるのもわからなくもない。

もうひとつ驚くことがある。韓国の保守派も日本の保守派と似たようなことを考えていることだ。

しかも、韓国の公共教育を牛耳っている全国教職員労働組合がここ17年間、地道に進めてきた「反APEC共同授業」といったイデオロギー教育を通じて、世界を色眼鏡で見る教育を受けて、もっとも重要な成長期を過ごした世代だ。
日教組批判と同じ構図である。そして、対抗イデオロギー教育が必要だと言うのだろう。
このような状況下で、最後の砦(とりで)ともいえる軍の中枢的世代が精神的武装を解除してしまったこの状況に、いったいどう対処すべきなのか、心は沈むばかりだ。

スタンバイ国家も大変である。これはイデオロギー防衛論でしかないように思う。朝鮮半島では冷戦は終わっていないのだった。世界は国家が相手とは限らない対テロ戦争に移行しつつあるのに。北朝鮮問題は対テロ戦争の枠組みには収まりきらないから仕方のないことではあるが。

そうは言っても、韓国が北朝鮮と対峙しているからこそ、日本は平和を享受できるわけだから、私の発言はとても無責任なものである。もちろんこの世界から戦争がなくなるとはまったく思っていない。人間は衝突を性とする生き物である。戦いに終わりが来ることはない。





まず隗より始めよ

北朝鮮の非転向長期囚が韓国に10億ドルの補償を求めた という。これに対して、韓国の北朝鮮拉致被害者が北朝鮮の金正日総書記と朝鮮労働党を相手取り、総額4億ドル(約460億円)の損害賠償を求める訴えを申し立てた。当然のことである。日本人の拉致被害者からも同様の訴えが今後起こるだろう。

自由主義、民主主義、人権の観点から見て、韓国よりもかなり未成熟な、というよりそういったものがまったく存在しない北朝鮮が「人権と民主主義に関する国際法」を引き合いに出しながら、「ハンナラ党と朴槿恵(パク・クンヘ) 代表に歴史の審判を受けさせるべき」と主張するのは無茶苦茶である。こういう訴えを起こすのならば、日本、韓国他の拉致被害者を解放し、まともな謝罪と補償を先にすべきである。自国民の生命、自由、財産を侵害してなんとも思っていない北朝鮮政府がこのような要求をすることは極めて矛盾したことである。

まず隗より始めよ。北朝鮮は重要事項の優先順位を取り違えてはいけない。


Wednesday, January 04, 2006

超政治

毎日新聞に寛仁親王殿下のインタビューの記事があった 。皇室典範改正問題についての質問にも応じていた。殿下の発言は男系維持を主張するものである。そのことに異論はない。憲法第4条の制約を受けて政治と結び付けられないようにしているからなのだろうし、私が曲解しているのだろうが、気になったことがある。

それは次の部分。

■皇室典範改正
皇室のあり方に関する問題を有識者会議による1年、三十数時間の議論で決めてしまうことに素朴な疑問を抱く。この問題は、政治を超えたものだ。多くの国民が歴史を理解したうえで大いなる論議がわき上がって、国会で、審議に審議を重ねて結論が出ればと思う。男系で継いできた歴史は、一度切ってしまえばつなげないことを分かってほしい。

国会や内閣は政治の場である。「政治を超えた歴史の問題」を国会で審議はできない。天皇制を政治の範疇に置いておくのであるならば、国会で審議すべきだろう。歴史の問題であるならば皇室自身で決めることができるが、天皇制を政治から切り離すしかない。憲法に天皇の規定をおくことは不適切となるだろう。 政治ではないことを国会で審議に審議を重ねても結論は出まい。政治の結論は出ても、政治でないことの結論は出ない。

これは国家が政治的になってしまったとの帰結である。国家のことを政治的以外に決めることはできなくなっている。天皇制の歴史の重みはわかるが、それを重視するには国家を歴史的にするしかない。国家の決定を歴史的にするしかない。国家の現在を過去にゆだねるしかない。

政治を超えた問題を政治家に結論を出させることは酷であろう。政治家の職責を超えている。歴史の問題は歴史自身が結論を出すのではないだろうか。国家とは関係なく。